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1944年から1945年のフィリピンの戦い(ふぃりぴんのたたかい)は、第二次世界大戦後期において、フィリピン奪回を目指す連合国軍と、防衛する日本軍との間で行われた戦闘である。日本軍は「捷一号作戦」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、アメリカ軍を中心とする連合軍が勝利を収めた。 == 背景 == === 日本 === 1944年6月のマリアナ沖海戦は日本の敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥してマリアナ諸島の喪失も確実なものとなった。この敗北は日本の政治情勢にも影響し、東條英機内閣が倒れて、7月22日に小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる〔児島。〕。 その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。 # 短期決戦案 # * 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。 # 決戦重点二本立案 # * 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七〜八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二〜三割)をもって長期戦的努力を強化する。 # 併行二本立案 # * 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。 # 長期戦重点二本立案 # * 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。 日本の「戦力は既に破断界に達している」〔と認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は初期著作『太平洋戦争』で、「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。 この間、大本営は、7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行って新たな防衛計画「捷号作戦」を立案し、7月24日に裁可された。作戦は地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北に繋がるものであった。 陸軍は24日、作戦準備を各軍に命じた。ルソン島、レイテ島ほかの地区を防衛するために第14方面軍が1944年8月4日に創設された。方面軍司令官となった山下大将がルソン島ニルソン飛行場へ降り立ったのは、1944年10月6日であった。第14方面軍は、ルソン島に4個師団、レイテ島に1個師団、ミンダナオ島に2個師団、ミンドロ島・サマール島・セブ島・ボホール島に各1個大隊、その他に計3個大隊を配置した。このほか、ボルネオ島には9月に第37軍(2個旅団)が置かれた。 その後、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議の最初の会議が8月19日開かれた。このとき「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧(はさい)、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での決戦方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした(以上、日本の背景は主に児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る、中公新書、後同文庫)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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